円筒分水かわうそ探検隊

円筒分水を訪問している記録です。ツイッターやインスタの Kawausobunsuiをフォロー頂くとアップデート時にご案内が流れます!

沢4号(長野県上伊那郡 西天竜幹線水路円筒分水工群)

沢地区を支える4つの分水工の一つ

分水工群北から2つ目の扇形の分水。なんとなくおっとりした感じ。


こちらは扇型の分水です。すぐ近くの幹線水路からの水は豊富でした。

道路より一段下がったところにあります。ソーラーパネルに囲まれてます。

こういう分水路のカーブが好きです。用水先の一つはは道路の下を通って南側の田んぼへ。もう一つは北側へ。

 

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地図で見ると箕輪町辰野町の境から南は桑沢川までの沢地区を潤しているように見えます。でもこのあたりは円筒分水が出来た頃に比べるとずいぶん宅地化、産業化が進んでいます。

 

幹線水路を次の沢5号まで歩いていると、「沢号外」のプレートに出会います。

沢4号の南、桑沢川の北という位置になりますが、沢4号でカバーしきれない必要量を供給するのかなと思います。地味で注目されないけどがんばってます!

 

ちょうどお昼時でお腹がすいてきました。あたりを見回すと幹線用水を越えて西にすぐのところにレストランが。地元の食材を使った美味しいランチを頂きました!

近くの農家の方が作っているという「えごま」の餃子も追加で頂きました。紫蘇の餃子も頼んで食べ比べ。どちらもとても美味しかったです。

データ
名称:西天竜用水路 沢4号
住所:長野県上伊那郡箕輪町
方式:オリフィス式、扇形
水源:西天竜用水路
用水:2方向分水。沢地区
竣工:1935年(昭和10年)~1940年(昭和15年)?
管理: 上伊那郡西天竜土地改良区

登録:西天竜幹線水路円筒分水工群全体で土木学会推奨土木遺産(2006年/平成18年度)

 

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沢3号(長野県上伊那郡 西天竜幹線水路円筒分水工群)

沢地区に水を送る円筒分水

羽北2号からすぐ南の十字路の角にあります。少し前の写真ではかなり老朽化した感じでしたが補修された模様。かなり円が太くなっているので、従来のものの上から重ねる形の補修なのかもしれません。

この沢3号、円筒の西側に15、東に11のオリフィス孔がありますが、西側は見える水路がなく水がどこに行っているかよくわかりません暗渠に直接入っているのでしょうか。東側はまっすぐ東に延びています。

地図を見ると真っすぐ東で中央高速道路の伊北インターチェンジの入り口にぶつかります。その近辺は工場地帯。インターの物流機能の良さを中心に発達したのですね。

中央道と国道153号の間にはIHI、河口工業、フジ精密工業、扶桑科学、東日本トランス、小野製作所、トリネックス、丸共ユニオン、花岡光学、ミスズ工業、日進ウエルディング…とたくさん。中央道の東側には長野オリンパスの本社、明和工業長野工場も。

でも円筒分水が出来た頃昭和10年代は中央道もなく、この現在の辰野町羽場南から箕輪町沢の地区は一面のたんぼ。伊北インターチェンジが開通したのは1976年(昭和51年)ですが国土地理院の昔の地図で確認してみました。

 

1961年~69年の地図にはインターはまだ無し。沢3号らしいものが写ってます。そして西天竜用水路の東、現在の羽場、北大出、沢、伊那富はきれいに区画整理されたたんぼです。

 

それが1974年~78年の写真になると、伊北インターが登場!それでもまだまだ工場は少なくたんぼが沢山。

 

1974年~78年写真では羽北2号ははっきり確認できませんが、2013年の写真では現在同様で、この地区は羽北2号、沢3号がカバーしているように見えます。

 

現状では沢3号から東に延びる水路は、途中の北大出地区に用水せず(そちらは羽北2号にまかせて)道路の下を通し、国道153号(三州街道/伊那街道)より東に用水する形に見えます。

伊北インター入口の交差点の東には用水の出口がありそこから二分して用水が流れていきます。昔は沢3号がカバーしていた地域は26ヘクタールあったそうですが、現在羽場南地区、沢地区のたんぼが大幅減った現在、どこまでどう用水しているか、また歩いて確認する楽しみが増えました。分水の西側の用水の行先も気になります。

 

羽北1号乙と支線1との関係のように、インターが出来る前までは現在の用水の出口あたりに円筒分水があったのでは?とか妄想は尽きません。

沢3号は昔は羽北3号という名前が記載がされている資料もあり、名前の変更も興味深いです。

データ
名称:西天竜用水路 沢3号
住所:長野県上伊那郡辰野町
方式:オリフィス式、円形
水源:西天竜用水路
用水:2方向分水。沢地区
竣工:1935年(昭和10年)~1940年(昭和15年)?
管理: 上伊那郡西天竜土地改良区

登録:西天竜幹線水路円筒分水工群全体で土木学会推奨土木遺産(2006年/平成18年度)

 

#長野県 #上伊那郡 #辰野町 #西天竜幹線水路 #伊那谷 #天竜川 #円筒分水 #円形分水 #沢3号 #羽北3号

 

 

羽北2号(長野県上伊那郡 西天竜幹線水路円筒分水工群)

バランスの美しい扇形分水

羽北1号乙から南に歩くと遭遇するとても美しい扇形の分水。小さなものを入れて15のオリフィス孔から北、東、南の3方向(多分7+2+6の比率)で水を分けています。

水路を追ってみると、すぐ南にある沢3号を超えて南に延びている感じのする水路もあり、北大出地区の南側を広く担当している模様です。沢3号はもっと東に直行しているように見えました。

羽北2号と沢3号はまとめて一つの形で設置されず、とても近くに2つ設置する形を取って役目の地域も国道153号(三州街道/伊那街道)を挟む東西別々(北大出と沢)と分けて設置しているのがとても面白いです。

羽北1号乙も三州街道より東は支線(第二)が分配する形。ここ以南も同様の形がありますが、これは扇状地特有の水持ち(保水性)の悪さから、水源から各地区にダイレクトに水を送り、そこで分配する方式を採ったのかも、とか妄想するのは楽しいです。

いずれにしても先人の色々な知恵と経験、歴史が積み重なっている円筒分水にわくわくします。

 

データ
名称:西天竜用水路 羽北2号
住所:長野県上伊那郡辰野町伊那富
方式:オリフィス式、扇形
水源:西天竜用水路
用水:3方向分水。北大出地区
竣工:1935年(昭和10年)~1940年(昭和15年)?
管理: 上伊那郡西天竜土地改良区

登録:西天竜幹線水路円筒分水工群全体で土木学会推奨土木遺産(2006年/平成18年度)

 

#長野県 #上伊那郡 #辰野町 #西天竜幹線水路 #伊那谷 #天竜川 #円筒分水 #円形分水 #羽北2号

羽北1号乙(長野県上伊那郡 西天竜幹線水路円筒分水工群)

西天竜幹線水路円筒分水工群、一番北の円筒分水

羽北1号甲の扇形分水の取水水門から西天竜幹線水路を少し南に。

見事な形の円筒分水で感激です。コンクリートの感じから一度補修されているかも。

3方向に分水されています。北にオリフィス孔が6、南に5、東に23。

 

 

3分水の内東に向かう1本は支線1号へ行っている模様です。

作られた時は北大出の36ヘクタールを潤す、辰野町では最大の円筒分水だったのだと。

今は宅地が増えもう少し農地は減っているかも知れませんが、それでもこの水量はかな支線1号も併せ相当広い範囲をカバーしていると思います。

 

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メンテも大変と思いますが、これからも頑張って下さい!

 

データ
名称:西天竜用水路 羽北1号乙
住所:長野県上伊那郡辰野町伊那富
方式:オリフィス式、円形
水源:西天竜用水路
用水:3方向分水。羽場・北大出地区
竣工:1935年(昭和10年)~1940年(昭和15年)?
管理: 上伊那郡西天竜土地改良区

登録:西天竜幹線水路円筒分水工群全体で土木学会推奨土木遺産(2006年/平成18年度)

 

石井樋 (いしいび)(佐賀県佐賀市)

治水の神様、成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)による作られた嘉瀬川から多布施川への分流点

佐賀は円筒分水以外に水利の見どころが山積み。時間の制約の中で石井樋
(いしいび)へ行きました。

(上)嘉瀬川、「象の鼻」「天狗の鼻」

嘉瀬川の洪水時の勢いを制御し、水が佐賀城を直撃しないようにしつつ、城下に水を取り込み、また洪水時の砂が川や水路を埋めていかない多くの工夫があったり、400年前のその偉業には驚きました。

石井樋の知恵と工夫 国土交通省 九州地方整備局 武雄河川事務所

佐賀の治水の神様 成富兵庫茂安:農林水産省

成富兵庫茂安から現代へ | 一般社団法人九州地方計画協会

成富兵庫茂安の足跡│32号 治水家の統(すべ):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

(上)嘉瀬川の現在の大井手堰。手前は当時の大井手堰のあった位置

(上)石井樋、石井樋排水樋管

①まず川の勢いを「象の鼻」(最初の写真)という堤を作って流れを川の中央に寄せ、大井手堰(3枚目)にぶつけます。そのときに水に含まれた土砂の一部が川底に沈みます。

②大井手堰にぶつかった水は逆流してゆるやかな流れになり、土砂を少しずつ川底に沈めながら「象の鼻」と「天狗の鼻」の方へ流れていきます。

③象の鼻と天狗の鼻の間を通るうちに、さらに流れはゆるやかになり、土砂の混じらないきれいな水が石井樋から多布施川に流れていきくこととなります。(4枚目)

(上)「成富君水功之碑」成富兵庫茂安の功績を顕彰する石碑。石井樋公園に明治20年ごろ建てられました。裏側に茂安の功績が記されています。

 

佐賀は茂安が関わった多くの水利施設、蛤水道、西芦刈水路、多布施川、三法潟、裂田の溝、千栗堤、クリーク…と見どころたっぷりなのでまた再訪したいと思います。

 

#佐賀県 #佐賀市  #嘉瀬川 #石井樋 #成富兵庫茂安 

羽北1号甲(変形扇型)(長野県上伊那郡 西天竜幹線水路円筒分水工群)

西天竜幹線水路円筒分水工群を少しずつ記事にしてみます。

 

まず西天竜一貫水路!1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)に整備され、完成にあわせ開田工事が始まり1935年(昭和10年)までに1,000haもの耕地が一挙に増えたそうです。その中で水争いを解決するため第三代の天竜耕地整理組合長の穂坂申彦が円筒分水工を採用して解決を図ったとの事です。当時「穂坂式分水槽」と呼ばれていたそうです。1940年ごろまでに57基設置されたそうですが、現在は35基が稼働中と。

 

一つめは「羽北1号甲」

西天竜頭首工で取水された西天竜一貫水路の水は表に出たり山のトンネルを通ったりしながら伊那谷が大きく広がる羽場の標高750mくらいのところで水路として姿を現します。表に出てすぐのところで取水されすぐの所で分水しているのが羽北1号甲です。

形が舟みたいでかっこいい。

 

オリフィスで二方向に分水しています。

 

「羽北」は羽場の北だからでしょうか、それとも羽場と北大出の間だから?

 

西天竜一貫水路は伊那谷が大きく広がる羽場で表に顔を出します。

そこの取水口からは東に暗渠で道路に沿って地下を通りこの分水工の西端で姿を現し分水工にそそぎます。水は方形の部分で水流の勢いを調整後半円形の部分に入り2方向に分水されます。サイフォン式の注水ではないです。

 

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いずれにしても標高745m東の羽場地区をざぶざぶと潤しています。この地区は北大出からの用水やもう少し北の北の沢川からの用水も使われており、のんびり水路を追っかけるのもいいかも。



むくげがきれいに咲く農家のお宅の庭の一角に、庭の風景の一つのようにとけ込んで設置されています。そっと見せて頂きました。


データ
名称:西天竜用水路 羽北1号甲
住所:長野県上伊那郡辰野町伊那富
方式:オリフィス式、変形扇型
水源:西天竜用水路
用水:2方向分水。北大出、羽場地区
竣工:1935年(昭和10年)~1940年(昭和15年)?
管理: 上伊那郡西天竜土地改良区

登録:西天竜幹線水路円筒分水工群全体で土木学会推奨土木遺産(2006年/平成18年度)

 

巨勢川分水工(佐賀県佐賀市兵庫町)

佐賀の治水の租、成富兵庫茂安から歴史が連なる分水

2023年3月のブラタモリで「佐賀の発展は水にあり」と知ってこのこちらの円筒分水はどんな風になっているのだろうと楽しみにやって来ました。

www.nhk.jp

5月の連休だったのでまだ田んぼには水が入っておらず水量は少なかったですが中が良く見えました。すっきりしたデザインで3方向に水門のついたオリフィス型。

 

水路の先には3方向とも麦畑が広がっていました。刈り取りが終わるといよいよ田んぼですね。

 

分水の行先は巨勢川と平行な巨勢支線、東南の方向の若宮線、東へ向かう伊賀屋線となるとのこと

(水土里ネット佐賀土地/佐賀土地改良区HPより)

 

そして上流から取水して3方向に流れる水路全体は「兵庫線」という名前。

 

兵庫といえば、江戸時代初めに佐賀の用水を手掛けた「治水の神様」成富兵庫茂安(1560年(永禄3年)~1634年(寛永11年))。地図を見るとこの円筒分水がカバーするのは巨勢川を中心に佐賀の東から北東の水田が広がる「兵庫」(兵庫町、兵庫北、兵庫南)のエリアだと分かります。

佐賀の治水の神様 成富兵庫茂安:農林水産省

「兵庫」の地名は、江戸時代は肥前国佐賀藩佐賀郡巨勢郷、中佐賀郷、上佐賀下郷などだった地域の村が1889年(明治22年)にひとつの村にまとめられた時に、当時の佐賀郡長の武富時敏が成富兵庫茂安の偉業を伝えるために「兵庫村」としたためとの事。

 

円筒分水が出来る前はと調べて見ると、やはり茂安が古瀬郷(巨勢郷)の耕地に灌漑水を送る為、市の江で川上川(嘉瀬川の石井樋より北の部分)で取水して巨勢川までつなげ(現在の市の江福幹線水路の流路)、川が大きく曲がる地点で3つの水路(「三方向樋管」)の分水口を設置して一つは伊賀屋方向に(現在の伊賀屋線)、一つは若宮方向に(現在の若宮線)、もう一つは巨勢方向(現在の巨勢支線)をい設置したのだとのことです。

 

(農業土木技術研究会「水と土」2007年 150号『佐賀平野に生きる水秩序と技術について』浦杉敬助氏(農林水産省 )論文より)

 

それが現在は「三方向樋管」に代わって円筒分水に置き換わっているので、巨勢川円筒分水は江戸時代初期からの茂安の遺産を引き継いでいると思うと感慨深いです。

(上)三方向樋管

 

茂安の時代に円筒分水があったら、治水・用水の神様はきっと色々なところに設置していたに違いありません。

(上)昔と今のイメージ図(線はあくまでイメージです)

現在円筒分水への取水は市の江福幹線水路から巨勢川の川底下を伏越しして行われていますが、円筒分水のすぐ近くに三方向樋管の遺構がしっかり残されており見る事ができて(案内板は読めなくなっていますが)当時の事を色々想像させてくれます。

 



(上)白土井頭首工

巨勢川より直接取水していた時は川が直角に曲がる時にたまる砂を利用して取水口のすぐ下流に砂堰を作り取水しやすくすると共に、洪水時は堰が決壊するようにして巨勢川に水を逃す仕組みとして、堰の建築費を極力抑えた仕組みにしていたのだとか。すごく合理的なアイディアで感心します。この堰は「白土井」と呼ばれ現在は同じ場所に白土井の頭首工(水門)が設置されています。

 

長い水利の歴史がある佐賀は円筒分水が関係ある部分だけでも見どころたっぷり。ぜひ再訪したいです。

 

お米

JA佐賀市中央のエリアで栽培されているのは
「さがびより」「夢しずく」「さがのひかり」といった品種です。

佐賀のごはん美味しかったです。


データ

名称:巨勢川分水工
住所:佐賀県佐賀市兵庫町

方式:全周オリフィス(水門)式
水源:市ノ江川副幹線兵庫線(嘉瀬川
用水:3分水(巨勢支線、若宮線、伊賀屋線)
竣工:(昭和35-48年の間?:川上頭首工完成から幹線水路完成までの間?)
管理:佐賀県