円筒分水かわうそ探検隊

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巨勢川分水工(佐賀県佐賀市兵庫町)

佐賀の治水の租、成富兵庫茂安から歴史が連なる分水

2023年3月のブラタモリで「佐賀の発展は水にあり」と知ってこのこちらの円筒分水はどんな風になっているのだろうと楽しみにやって来ました。

www.nhk.jp

5月の連休だったのでまだ田んぼには水が入っておらず水量は少なかったですが中が良く見えました。すっきりしたデザインで3方向に水門のついたオリフィス型。

 

水路の先には3方向とも麦畑が広がっていました。刈り取りが終わるといよいよ田んぼですね。

 

分水の行先は巨勢川と平行な巨勢支線、東南の方向の若宮線、東へ向かう伊賀屋線となるとのこと

(水土里ネット佐賀土地/佐賀土地改良区HPより)

 

そして上流から取水して3方向に流れる水路全体は「兵庫線」という名前。

 

兵庫といえば、江戸時代初めに佐賀の用水を手掛けた「治水の神様」成富兵庫茂安(1560年(永禄3年)~1634年(寛永11年))。地図を見るとこの円筒分水がカバーするのは巨勢川を中心に佐賀の東から北東の水田が広がる「兵庫」(兵庫町、兵庫北、兵庫南)のエリアだと分かります。

佐賀の治水の神様 成富兵庫茂安:農林水産省

「兵庫」の地名は、江戸時代は肥前国佐賀藩佐賀郡巨勢郷、中佐賀郷、上佐賀下郷などだった地域の村が1889年(明治22年)にひとつの村にまとめられた時に、当時の佐賀郡長の武富時敏が成富兵庫茂安の偉業を伝えるために「兵庫村」としたためとの事。

 

円筒分水が出来る前はと調べて見ると、やはり茂安が古瀬郷(巨勢郷)の耕地に灌漑水を送る為、市の江で川上川(嘉瀬川の石井樋より北の部分)で取水して巨勢川までつなげ(現在の市の江福幹線水路の流路)、川が大きく曲がる地点で3つの水路(「三方向樋管」)の分水口を設置して一つは伊賀屋方向に(現在の伊賀屋線)、一つは若宮方向に(現在の若宮線)、もう一つは巨勢方向(現在の巨勢支線)をい設置したのだとのことです。

 

(農業土木技術研究会「水と土」2007年 150号『佐賀平野に生きる水秩序と技術について』浦杉敬助氏(農林水産省 )論文より)

 

それが現在は「三方向樋管」に代わって円筒分水に置き換わっているので、巨勢川円筒分水は江戸時代初期からの茂安の遺産を引き継いでいると思うと感慨深いです。

(上)三方向樋管

 

茂安の時代に円筒分水があったら、治水・用水の神様はきっと色々なところに設置していたに違いありません。

(上)昔と今のイメージ図(線はあくまでイメージです)

現在円筒分水への取水は市の江福幹線水路から巨勢川の川底下を伏越しして行われていますが、円筒分水のすぐ近くに三方向樋管の遺構がしっかり残されており見る事ができて(案内板は読めなくなっていますが)当時の事を色々想像させてくれます。

 



(上)白土井頭首工

巨勢川より直接取水していた時は川が直角に曲がる時にたまる砂を利用して取水口のすぐ下流に砂堰を作り取水しやすくすると共に、洪水時は堰が決壊するようにして巨勢川に水を逃す仕組みとして、堰の建築費を極力抑えた仕組みにしていたのだとか。すごく合理的なアイディアで感心します。この堰は「白土井」と呼ばれ現在は同じ場所に白土井の頭首工(水門)が設置されています。

 

長い水利の歴史がある佐賀は円筒分水が関係ある部分だけでも見どころたっぷり。ぜひ再訪したいです。

 

お米

JA佐賀市中央のエリアで栽培されているのは
「さがびより」「夢しずく」「さがのひかり」といった品種です。

佐賀のごはん美味しかったです。


データ

名称:巨勢川分水工
住所:佐賀県佐賀市兵庫町

方式:全周オリフィス(水門)式
水源:市ノ江川副幹線兵庫線(嘉瀬川
用水:3分水(巨勢支線、若宮線、伊賀屋線)
竣工:(昭和35-48年の間?:川上頭首工完成から幹線水路完成までの間?)
管理:佐賀県